旅行記 ~ 愛知戦国絵巻 Day4 #12 関ケ原・西軍
maoP第12話:関ケ原・西軍
※関ケ原への道のり、東軍陣地跡は11話で紹介しているので、未閲覧の場合は上記リンクより是非ご覧下さい。
西軍の陣地をめぐる ~石田・島~
11話の決戦地探訪に舞い戻り、続いて目指すのは石田三成の陣地跡。
石田三成の陣地は笹尾山という小高い丘の上にあったという。
▲大きな笹尾山
笹尾山の前には広々とした駐車場が整備されている。石田三成の陣地跡ということで他の場所より力を入れているようだ。
そんな笹尾山は少しばかり階段を登って行かなければ三成の陣地跡にたどり着けない。
▲登り始め
普段なら100段程度の階段などどうってことないが、
さすがにほとんど風もなく、じりじりと照りつける太陽の元で汗ばみながら階段を登っていくのはなかなかつらいものがある。
2分ほど登り続け、ようやくなにやら人工物が見えてきた。三成軍の旗、そして柵だろうか。
▲もう少しでてっぺんか
てっぺんまで上がり、まず目に入るのは大きな石碑。
▲石田三成の陣地跡であることを示す石碑
ここしか訪れない観光客が一定数いることを鑑みて、大きく「古戦場跡」と書かれている。ちょっぴり親切だ。
石碑を見ていた顔を180度方向転換すると、なるほど大パノラマである。
▲三成陣地跡から見える景色
ここからならばかなり分かりやすく、戦いの様子を見つめ軍配を振るうことができるはずだ。
なにせ、関ケ原合戦は始まる前は西軍有利とも目されていた説があるほどである。
三成からすれば、こんな最高の場所に陣を張ることができ、より一層勝利への自信を滾らせたに違いない。
▲関ケ原の案内看板
どの武将がどこに配置されていたのかを示す看板もある。
戦国時代が好きな私からすればこの図は子供の絵本と同じで、いくらでも見て楽しめる代物であった。
しばらく古戦場を丘から眺めた後地上に下り、最後に撮影しておきたい場所へ移動。
▲島左近の陣地跡
それが島左近の陣地跡である。
島左近は三成配下最強クラスの武将で、左近のおかげもありしばらく奮戦していたが、東軍の射撃を受け態勢が崩れる。
左近の行方は諸説あり、そして西軍は徐々に押し込まれていくのであった。
西軍の陣地をめぐる ~島津・宇喜多~
笹尾山を後にして南下する。訪れるのは島津義弘陣地跡、そして宇喜多秀家陣地跡だ。
三成の陣地跡から下り坂をスイスイ進み住宅街の道をなぞること5分ほど、島津義弘の陣地跡付近に到着。
▲まずは駐輪場に自転車を置く
島津の陣の付近には小さな神社が建てられていた。
▲ひっそりとした小池神明神社
そんな神社の裏手側に、まるで隠されるかのように島津義弘の陣地跡の石碑がある。
▲島津義弘の陣地跡
島津義弘は薩摩の国を治めた歴代最強レベルの大名である。
表向きは三成側についてはいたものの、陣地に近づくものは敵味方打ち払う、つまりどっちつかずの状態であった。
三成の配下の者が無礼を働いたことで結局義弘は三成には味方せず、
西軍が追い詰められた際には大胆にも東軍の中を突っ切って逃げ切るという勇猛果敢さを見せた。
▲島津義弘の当日の解説
島津義弘は九州地方を主戦場としたゆえ戦国時代の表にはなかなか出てこないが、その強さは誰もが認めるところである。
島津義弘の陣地跡から再び田園風景を走ること15分ほど。森の中に宇喜多秀家の陣地跡がある。
▲宇喜多秀家の陣地跡
宇喜多といえば戦国ファンからすると、宇喜多直家がよく主君を変えたことで印象深いが、
宇喜多秀家は三成に対しては最初から最後まで味方としてよく働いた。
合戦当日は小早川秀秋の寝返りにより劣勢に追い込まれ敗走、薩摩にまで逃げ延びるが家康に引き渡され、最終的に八丈島に流されたという。
西軍の陣地をめぐる ~大谷~
最後は西軍最大の悲劇の将、大谷吉継の陣地跡・墓へ。
吉継の陣への探訪は、関ケ原の陣地巡り最大の難所といっても過言ではない。
▲大谷吉継陣地を訪れる人のための駐輪場
まず途中までしか自転車で行けないので、行けるところまで自転車を漕ぎ、駐輪場に自転車を留め置く。
解説はこの駐輪場にあるので解説だけ見たい人はここで見て引き返してもいいが、
戦国ファンとあらば大谷吉継の陣地、そして墓を見ないわけにはいかない。
▲若宮八幡神社鳥居
神社への階段をあがると、踏切が見える。
東海道本線の小さな踏切を渡って若宮八幡神社を通過する必要があるのだ。
▲若宮八幡神社
神社を左手に見つつ、ここからは軽い登山さながらの急傾斜階段と形だけの道が続く。
別に登山靴が必須というわけではないが、足元には十分注意しないと滑落して最悪死ねる。
▲大谷吉継の陣地跡への道
あたりは日差しも入らずすっかり薄暗い。
さっきまでの太陽がじりじり照り付けるのとは対照的にずいぶんひんやりした山道を進むこと5分程度。
あと「○○m」と表記された看板を追い続けると、大谷吉継の陣地跡が現れる。
▲ようやく陣地跡に到着
▲陣地跡に建つ石碑
大谷吉継は小早川秀秋の寝返りを予測していたためこのような高所に陣地を構えていたのだろう。
実際小早川が寝返ってもしばらくは善戦していたものの、
藤堂高虎の調略により寝返った脇坂安治らの攻撃も受け、大谷軍は壊滅してしまった。
そんな陣地跡のさらに奥に、大谷吉継の墓がある。
やはり同じような山道を進むこと5分、不意に日差しが差し込む場所が現れる。
▲大谷吉継の墓への道。薄暗い道が続く
▲日差しが差し込み、神聖な雰囲気を感じる
紺色の旗、石でできた小さな垣。そう、あれこそが大谷吉継のお墓なのだ。
あの空間だけなにか別の空気を纏っている、それが写真からも分かるようである。
▲丁寧にこさえられた大谷吉継の墓
軍が壊滅し死を悟った吉継は、家臣の湯浅五助の介錯により自刃。
五助は戦場を離れ、直後に出くわす藤堂高虎の甥の高刑(たかのり)に、自身の首を差し出す代わりに吉継の墓の場所を秘めてほしいといった。
甥は徳川の詰問にも応じず、約束を頑として守ったという。吉継の墓はその藤堂家の手によって建てられた。
最後に吉継が陣地を張り、実際に小早川を見張った場所を訪ねてみる。
▲陣の景色、陣からの景色
陣からは、確かに小早川が陣を張った松尾山がよく見える。
西軍としても、そして戦国時代を生きた一武将としても、誠に優れた武将であったことだろう。
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